「鶏胸肉はパサつくもの」。そう諦めてはいませんか?
多くの家庭料理で鶏ハムがパサついてしまう原因は、実は「レシピ通りに作っていないから」ではなく、「タンパク質の熱変性温度」という物理法則を無視しているからに他なりません。
今回ご紹介するのは、日本料理界の雄・「賛否両論」店主、笠原将弘氏が披露した鶏ハムのレシピ。
動画内で「地球上にこれ以上しっとりしたものはない」と豪語するその仕上がりは、単なる感覚や経験則だけではなく、極めて理にかなった「化学的・物理的アプローチ」によって支えられています。
なぜ砂糖を揉み込むのか?なぜアルミホイルを巻くのか?そして、なぜ「沸騰した湯で30分放置」なのか。
この記事を読めば、全ての工程に隠された「しっとりさせるためのロジック」が理解でき、あなたの作る鶏ハムは劇的に進化することでしょう。
動画紹介
今回の分析対象はこちらの動画です。
ポイント①:熱伝導の均一化と「観音開き」の幾何学

(★対象時間:03:00付近)
まず最初に行われるのが、鶏胸肉の厚みを均一にする「観音開き」の工程です。
これは単に巻きやすくするためだけの作業ではありません。
技術的な観点から見ると、これは「熱伝導率の平準化(イコライジング)」を目的としています。
鶏胸肉は部位によって厚みが大きく異なり、そのまま加熱すると、薄い部分は過加熱(オーバークック)になり、厚い部分は生焼けという「加熱ムラ」が発生します。
笠原氏は包丁を寝かせ、厚い部分にスリットを入れて開くことで、肉全体を「均一な厚さの直方体」に近い形状へと変化させています。
さらに、繊維を断ち切るように縦に数カ所の切り込みを入れることで、加熱時の繊維の収縮による変形を防ぎ、熱の通り道を確保しています。
この「物理形状の最適化」こそが、後の加熱工程での成功率を100%に近づけるための土台となるのです。
【分かりやすく言うと!技術の翻訳解説】
お肉の厚さがバラバラだと、薄いところは「焼きすぎ」、厚いところは「生」になってしまいます。 本を想像してください。閉じたままの分厚い本を温めるより、ページを開いて薄く広げた方が、中まで早く温まりますよね? これと同じで、お肉を「どこも同じ厚さ」に広げてあげることで、全体に同じタイミングで火が通るようになり、失敗がなくなるのです。
ポイント②:スクロース(砂糖)による「保水バリア」の形成
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(★対象時間:04:50付近)
ここが今回のレシピの最大の「化学的ハイライト」と言えます。
笠原氏は塩だけでなく、同量の「砂糖」を肉に揉み込んでいます。
一般的に塩はタンパク質を溶解させ、結着力を高めるために使われますが、ここでの主役は砂糖です。
砂糖(スクロース)には極めて高い「親水性(水を抱え込む性質)」があります。
これを「保水性」と呼びます。
肉の繊維の中に砂糖分子が浸透すると、加熱によってタンパク質がギュッと縮まろうとして水分を絞り出そうとする際、砂糖分子が水分と結合して流出を食い止めます。
動画内で笠原氏が「砂糖には保水効果がある」と明言している通り、これは科学的に正しいアプローチです。
揉み込んでから10分ほど置くことで、浸透圧により表面にうっすらと水分(ドリップではなく、調味液となった水分)が滲み出てきます。
これが、砂糖と塩が細胞内部へ浸透した合図です。
この工程を経るか経ないかで、仕上がりのジューシーさは天と地ほどの差が出ます。
【分かりやすく言うと!技術の翻訳解説】
お肉を加熱すると、中の水分は外に逃げ出そうとします。これがパサパサの原因です。 ここで砂糖の出番です。砂糖は「お水と仲良し」な性質を持っています。 お肉の中に砂糖を入れておくと、加熱された時に砂糖が水分をガッチリと抱きかかえて、「外に行かないで!」と引き留めてくれるのです。 だから、茹でても中にお水が残り、しっとりプルプルの食感になります。
ポイント③:アルミホイルによる「熱緩衝帯」と形状保持

(★対象時間:08:00付近)
成形工程では、まずラップでキャンディ状に巻き、その上からさらに「アルミホイル」で巻くという「二重構造」を採用しています。
このアルミホイルには2つの重要な物理的役割があります。
- 熱の緩衝作用(バッファ):
ラップだけの状態で熱湯に入れると、ダイレクトに高温が伝わり、表面温度が急激に上昇してしまいます。
アルミホイルを介在させることで、熱伝導の速度をわずかに緩やかにし、急激な温度変化(ヒートショック)による表面タンパク質の硬化を防ぎます。
いわば「柔らかい熱」を入れるためのフィルターです。 - 水分の遮断:
ラップの隙間から茹で汁が侵入すると、肉の旨味が流出し、逆に水っぽくなってしまいます。
アルミホイルで圧力をかけながら密閉することで、旨味を内部に完全に閉じ込める「圧力鍋」のような微細な環境を作り出しています。
【分かりやすく言うと!技術の翻訳解説】
ラップだけでお湯に入れるのは、裸で熱湯風呂に入るようなもの。
表面が一瞬で火傷して固くなってしまいます。
アルミホイルという「防護服」を着せてあげることで、熱の伝わり方が優しくなり、じんわりと中まで温めることができます。
また、ギュッと縛ることで形が崩れず、綺麗な丸いハムに仕上がります。
ポイント④:タンパク質の変性を制御する「余熱調理」の方程式

(★対象時間:09:50付近)
ここが最も重要な「加熱プロセス」です。
笠原氏のメソッドは「弱火で5分加熱」→「火を止めて蓋をし、30分放置」というものです。
鶏胸肉の主成分であるタンパク質(アクチン)は、約66℃を超えると急激に収縮し、水分を絞り出して硬くなります(=パサつき)。
一方、食中毒の原因菌を死滅させ、安全に食べるためには中心温度を一定時間、特定の温度(例:63℃で30分など)に保つ必要があります。
沸騰した100℃のお湯でグラグラ煮続けると、肉の温度はすぐに100℃に達し、水分は蒸発して繊維はゴムのように硬化します。
しかし、この「余熱調理」では、火を止めることで水温が徐々に下がっていきます。
鍋の中の大量の水が持つ熱容量を利用し、肉の中心温度を、硬くならないギリギリのライン(約60℃〜65℃付近)に長時間留めることができます。
これは、高級レストランで行われる「低温調理」を、専用機器なしで物理的に再現しているテクニックなのです。
【分かりやすく言うと!技術の翻訳解説】
お肉は「温度」にとても敏感です。
100℃の熱湯で茹で続けると、お肉はびっくりしてギュッと縮こまり、中の肉汁を全部吐き出してしまいます。
そこで、最初だけお湯を温めて、あとは火を消して「余熱」だけで温めます。
こうすると、お風呂のようなちょうどいい温度(60℃〜70℃くらい)が長く続き、お肉が縮こまることなく、やわらか〜いまま中まで火が通るのです。
ポイント⑤:冷却による「組織の安定化」とカッティング

(★対象時間:11:10付近)
加熱が終わった後、笠原氏は「常温になるまで冷ます」ことを強く推奨しています。
出来立て熱々を食べたいところですが、技術的にはこれはNGです。
加熱直後の肉内部では、肉汁(脂質と水分)が高い流動性を持って自由に動き回っています。
この状態で包丁を入れると、切断面から肉汁がドバドバと流れ出し、せっかくの保水効果が無駄になってしまいます。
冷ますという工程は、熱力学的に「肉汁の粘度を高め、ゼラチン質を凝固させる」作業です。
温度が下がることで肉の繊維が落ち着き、肉汁が繊維の中に留まります。
これにより、切った時に断面が美しく、口に入れた瞬間に初めてジューシーさが溢れ出す構造が完成します。
【分かりやすく言うと!技術の翻訳解説】
出来立て熱々のハンバーグを切ると、肉汁が全部お皿に流れ出してしまいますよね?
あれと同じです。
お肉が熱いうちは、中のジュースがサラサラで流れやすい状態です。
冷めるまで待つことで、中のジュースが少し固まって「お肉の中に閉じ込められた状態」になります。
だから、冷めてから切ることで、旨味を逃さず口の中まで運ぶことができるのです。
まとめ
笠原将弘氏の「しっとり鶏ハム」は、単なる家庭料理の枠を超えた、理化学的な最適解の集合体でした。
- 観音開きによる熱伝導の均一化
- 砂糖による強力な保水効果
- アルミホイルによる熱のバッファリング
- 余熱調理によるタンパク質変性の回避
- 冷却による肉汁の定着
これら全ての工程が、「パサつき」という物理現象を回避するために計算され尽くしています。
「地球上でこれ以上しっとりしたものはない」という言葉は、決して大げさな表現ではありませんでした。
ダイエット中の方も、美食家の方も、ぜひこの「科学された鶏ハム」を再現し、その驚異的な食感を体験してみてください。

